古/いにしえの面影       其の一阡壱百四拾

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2013年07月15日 月曜日
アップ日  2015年09月01日 火曜日
神奈川県横須賀市東浦賀(浦賀の渡舟)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
 
三浦半島 
中世には頼朝の挙兵に従った三浦氏の領国であった。
三浦氏は北条時頼の時代に宝治合戦で宗家が滅ぼされた。
以後半島の北の街道沿いは北条氏の領地となり、北条氏側に付いて三浦の家名を継承した傍系は、
半島内に閉じ込められる形となった。
後にこの系統は戦国大名化し、扇谷上杉氏の被官となるも、伊豆の北条早雲が相模国に勢力を拡大し、
1516年に三浦氏を攻めるために玉縄城を築き、籠城した三浦義同・三浦義意を住吉城から新井城に攻めて滅亡させると、
三浦半島は後北条氏の領地となる。
戦国時代には三浦半島は後北条氏の水軍の本拠となり、東京湾を挟んで里見氏とが争う。
里見義堯は水軍を率いて三浦半島を襲撃し、鎌倉まで攻めて北条氏綱と戦う。
江戸時代初期は玉縄を本拠とする本多正信の領地で、江戸幕府直轄の天領であった。
1600年にヤン・ヨーステンとともに「リーフデ号」で日本に来航したイギリス人ウィリアム・アダムスは徳川家康の外交顧問となり、
三浦半島に領地を貰い、日本名を三浦按針とした。
鎖国後の江戸時代には浦賀の町に廻船問屋が並び、徳川吉宗は浦賀奉行を設置する。
後期にはフェートン号事件などが発生したため、鎖国政策をとる江戸幕府は江戸湾防備のために、
1810年に会津藩に三浦半島沿岸の警備を命じる。
1821年以降は会津藩に代わって川越藩がそれを担当した。
その後、モリソン号事件のように外国船が日本近辺に出現して測量などを行うようになり、
1846年にはジェームズ・ビドルのアメリカ艦隊が三崎沖に姿を現し開国を求めた。
幕府は1853年にはマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航、久里浜に上陸して幕府に通商を迫った(黒船来航)。
洋式砲術を研究していた幕臣の江川英龍は、三浦半島に砲台を築いて防衛線とすることを提言するが退けられた。
明治後には三浦半島は国防上の要衝地と認知される。横須賀には横須賀鎮守府が設置され、
日露戦争において黄海海戦や日本海海戦で旗艦として活動した戦艦「三笠」の本籍地であった。
この「三笠」は日露戦争後に火災で沈没し除籍となるが、保存工事が施され三笠公園に現存する。
太平洋戦争(大東亜戦争)の末期には、アメリカ軍の本土上陸に備えて沿岸陣地も築かれた。
戦後には消滅した日本軍に代わりアメリカ軍や自衛隊の基地が横須賀市や逗子市に多く作られ再び『軍都』となる一方、
首都圏の発展に伴い三浦半島でもベッドタウン化が進み、2007年現在の人口は62万人であるが、住民の高齢化も進行している。

(Wikipediaより)

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浦賀道の街中へ~

※此処は前にも

浦賀道~



渡舟乗場
おっちゃん、お元気かなぁ~?

※就航中~
お元気そうで!!

モルタル蔵が~



吉田松陰・佐久間象山相会処跡

※平成10年に就航した愛宕丸は
御座船風のデザインとか。。

色んな桟橋
舟上げ場風景

※渡舟は昼休み有り




浦賀のドックは健在です。

※其の壁には
小林一茶と専福寺の由縁も~
でも、文化3年なら鎖国中で
ハイカラさんみたいなマドンナは…

雷電為右衛門も東林寺境内で
興行を行ったとか。



浦賀道沿いの道標、墓標群

※庚申信仰の碑も有るんでしょうね。
このページを、昨年高倉健さんと同じ日に逝った
あきおさんに捧げます。安らかに、お眠り下さい義父さん。
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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