古/いにしえの面影       其の一阡壱百弐拾一

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2013年04月05日 金曜日
追加撮影  2015年04月08日 水曜日
アップ日  2015年06月15日 月曜日
大阪府寝屋川市太間(太間天満宮)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ)は、仁徳天皇(オオササギ王)が
淀川沿いに築かせたとされる堤防である。
『日本書紀』仁徳天皇11年10月の記事に、「天皇は、北の河の?(こみ)を防がむとして茨田堤を築く
(天皇は洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いた)」との記述があり、茨田堤の成立を物語るものとされている。
古墳時代中期は、ヤマト王権が中国王朝および朝鮮諸国と積極的に通交し始めた時期であり、
ヤマト王権にとって瀬戸内海は重要な交通路と認識されていた。
そのため、ヤマト王権は4世紀末~5世紀初頭ごろに奈良盆地から出て、瀬戸内海に面した難波の地に本拠を移した。
本拠となる高津宮は上町台地上に営まれたが、その東隣の河内平野には、当時、草香江(または河内湖)と
呼ばれる広大な湖・湿地帯が横たわっており、北東からは淀川の分流が、
南からは平野川(現代の大和川)が草香江に乱流しながら流入していた。
上町台地の北からは大きな砂州が伸びており、この砂州が草香江の排水を妨げていたため、
淀川分流や平野川からの流入量が増えると、
容易に洪水や高潮などの水害が発生していた。
新たに造営された難波高津宮は、食糧や生産物を供給する後背地を必要としていたので、ヤマト王権は、
治水対策の目的も併せて、河内平野の開発を企てた。
そこで、草香江に流入する淀川分流の流路安定を目的として、堤防を築造することとした。
堤防は、当時の淀川分流の流路に沿って20km超にわたって築かれており、
当時、この地方を「茨田」といったので、「茨田堤」と呼ばれるようになった。
茨田堤の痕跡は、河内平野北部を流れる古川沿いに現存しており、実際に築造されたことが判る。
このような長大な堤防を築くには、高度な築造技術を要したはずであり、かなりの困難も伴っただろうと考えられている。
先述の『日本書紀』の仁徳天皇11年10月の項には、続いて次のような記述がある。
どうしても決壊してしまう場所が2か所あり、工事が難渋した。
このとき天皇は「武蔵の人コワクビ(強頸)と河内の人の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を、
河伯(川の神)に生贄として祭れば成功する」との夢を見た。
そこで早速二人が探し出され、それぞれの箇所に1人ずつ人柱に立てられることとなった。
コワクビは泣き悲しみながら入水していったが、コロモコはヒョウタンを河に投げ入れ、
「自分を欲しければ、このヒョウタンを沈めて浮き上がらせるな。もしヒョウタンが沈まなかったら、
その神は偽りの神だ」と叫んで、ヒョウタンを投げ入れた。
もちろんヒョウタンは沈まず、この機知によってコロモコは死を免れた。
結果として工事が成功した2か所は、それぞれコワクビの断間(こわくびのたえま)・コロモコの断間(ころもこのたえま)と呼ばれた。
そのまま史実ではないだろうが、類似した状況が発生していたと推測されている。
「コワクビの断間」は現在の大阪市旭区千林、「コロモコの断間」は寝屋川市太間に当たるとする伝承がある。
京阪電車大和田駅の東北にある堤根神社の本殿の裏には、茨田堤の跡と推定される堤防の一部が現存している。
『日本書紀』には、茨田堤を築造してほどなく、茨田屯倉(まむたのみやけ)が立てられたとある。
茨田堤によって水害が防がれたことにより、茨田地域が開発され、屯倉として設定されたのだと考えられている。
その後、奈良時代に入っても茨田堤はたびたび決壊し、多くの人々が苦しんだとの記録が残っている。
長岡京建設の直後である延暦4年(785年)にも茨田堤が決壊、
この年、淀川の水を放流するために淀川と神崎川を水路で結ぶ大工事が行われている。
茨田堤の築造と同時に堀江の開削という事業も実施されており、この両者は、日本最初の大規模な土木事業だったとされている。
(Wikipediaより)

 
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

淀川の右岸
平行に流れる幹線用水路に
今年も桜を見に行きました。
(2015)

※片倉シルク号(1966年製)

大阪府太間排水機場
寝屋川下流部の洪水時の流量負担を軽くするため、
寝屋川分水施設から上流の洪水を寝屋川市桜木町地点から分水し、
寝屋川導水路を利用して、ポンプで淀川へ放流することを目的としています。
また、関連する施設の寝屋川導水路や、打上川治水緑地が、太間排水機場から監視できることで、
寝屋川上流域が洪水にならないように集中管理をおこなっています。
(大阪府HPより)

※寝屋川と淀川の分岐点
 
船溜まりのような
貯水場

※幹線用水路分岐点

寝屋川方面
前には

※交野方面
前には

茨田堤碑

※ このとき天皇は「武蔵の人コワクビ(強頸)と河内の人の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を、
河伯(川の神)に生贄として祭れば成功する」との夢を見た。

こんな夢見られたら
人民は敵いませんね。
まさか、天皇の身内を人柱~
なんて、夢見たとは…

現代の排水機場は
昔の堤ですかね。

※遥か向こうに
河内湖が望まれたんでしょうか?
前には

寝屋川方面
前には

※島本方面
前には

大阪府枚方土木事務所
内水区域
と外水区域が有るんですね。
現在の寝屋川の源流部分

※1本松も謂れがありそう~

太間の旧村

※水との戦い跡?
石積みが少し

足場を組んで
家屋補修中~

※残してね!

太間天満宮サン

※境内も桜満開!

菅原道真さんが
京都から来られたとか
下流部には菅原町も有ります。

※衫子絶間跡碑

社殿

※裏側

新しい狛犬


※吽

近所も花盛り

※手水鉢

古い狛犬

※尻尾は微妙に違います。
台座には浅い盃状穴が見られます。

 

保存樹

※交通情報で良く聞く
国道太間近く

一本一得
鐘はない。

※花筏を見に~
 
(2015)
丸ポストで気を付け!

※絶間橋

親柱

※花盛り~

(2015)
ハイポーズ!



絶間橋横から~

※高架道は
R1の寝屋川バイパス

水門に花筏



冬なら薄氷状態

※日本一の石臼ですって。

カヌーを浮かべたいですね。



ん?
淀川からの分水跡
前には

※小川も昔のまま

茨田樋之跡碑

※メダカは見られない~

茨田樋遺跡

※水辺公園
現存している樋遺構は、明治38年に造られ、昭和5年に廃止され、
替わりに淀川沿いに新たに掘られた幹線水路にその役目が引き継がれるまで、
池田・点野・対馬江・仁和寺など市内西地区をはじめ門真・守口市方面の人々の
生活を支えた土木文化遺産ともいえるものです。
その頃、淀川から農業用水・生活用を引き込んでいた用水樋門は、
淀川左岸では枚方から毛馬までに8箇所ありましたが、
台風など大水時に堤防決壊の恐れがあるとして
昭和初期にすべて廃止され、かつての遺構が現存しているのは、
この「茨田樋跡」だけになっていました。
(寝屋川市HPより)

土汽車も有ったんですね。

農業・生活用水の分水地点
かつて、淀川の水は非常にきれいで、大川(旧淀川)の水で千利休が茶の湯を立てていたといわれています。
淀川・寝屋川・大川に囲まれた北河内・なにわの一帯は、
淀川の河口部の本流から分かれた派流の間に発達したデルタ地帯で、源流はもちろん淀川そのものでありました。
このデルタ地帯に点在する集落では、高度成長期前まで水路に設けられた“ひなだ"と呼ばれ上水道が引かれても
「もったいない」として飲料、煮炊き以外は“ひなだ"を活用する人も多く、
水辺では、こどもたちが泳いだり魚とりを行なうなど、用水路は各集落のコミュニケーションの場でもありました。
また、年に1回、村人総出の “川浚え"“どべ上げ"と呼ばれる共同の川普請もして、大切に扱われていました。
(寝屋川市HPより)


※京街道脇の集落だったんですね。

この銀杏の木は
国道1号が堤防上を走っていた頃
警察署の出張所があり
国道と取水口を監視していた。
敷地に植えられていたのが、この木とか。
木と堤防の間に
三井地区から土汽車が通っていたとか~
(土を運び出したり、堤防の嵩上げをしたり)
近くには茶屋も沢山有ったとか。

※石畳も~

昔は、鶴見区にも
井路が沢山有って
ザリガニやメダカを取りに行きましたわ。



ハナズオウ満開!

点野(しめの)近くにも
花筏が~


やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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