其の一阡壱百弐拾二
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)
撮影日 2013年04月05日 金曜日 アップ日 2015年06月17日 水曜日 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ワッカン~
資料として気になる街角 撮っておきや!(by UFO先生) 近代以降は浄土宗に属するが、もとは融通念仏宗(大念仏宗)佐太派の本山であった。 正平2年(1347年)、大念仏寺7世法明上人の弟子、 実尊誠阿上人西願が河内国茨田郡下仁和寺庄守口村(守口市来迎町)に 天筆如来を本尊として一宇を建立したのが始まりとされる。 天筆如来とは、石清水八幡宮を創建した僧・行教が貞観元年(859年)に感得したとされる、阿弥陀三尊の絵像である。 後に南朝後村上天皇の勅願寺となり、釈迦如来立像の寄進を受け、本堂に放光殿の号を賜る。 その後延宝6年(1678年)、現在地に落ち着くまでの332年間、茨田郡内で26回の移転を繰り返している。 守口市史編纂委員会の調査では、この理由を2世の時代以降に北朝方の足利義満から圧力を受けて 創建当初の堂宇を維持できなくなったこと、住職相続を直檀家の内34家からなる床仲間からくじ引きで決めたこと等から、 代替わり毎に相続者の居村に移転したものと結論付けている。因みに同村の者が相続した場合は移転していない。 江戸時代に入ると江戸をはじめとする東国で盛んに本尊・天筆如来の開帳会が行われた。 享保3年(1743年)、35世慈天の下に女の幽霊(江戸小網町の大工の妻、「お石」と言う)が現れ、 慈天の回向を受けて成仏したとの伝説があり、その時に「お石」が残した幽霊の足跡とされるものが現在も伝わっている。 (Wikipediaより) (※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば… 気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで! いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
|