集合場所への道すがら~
※京阪電鉄の変電所の取り壊し中~
(2015現在ではマンションに成っています)
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梅の季節
本日の相棒はBSA(1940年台製)
※八軒家船着場の跡碑
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明治期までは現:土佐堀筋まで
淀川(現:大川)が、この場所まで~
※この階段も当時のママ
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住友三井
大阪本店
※丸い柱が好きですねん。
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大阪倶楽部さん
正面
※脇にて~
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靭公園が集合場所
※ボチボチと集まっていました。
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ねずみ君
毎度!
※元大谷くん
可愛いなぁ~
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参加車は
お決まりの髭つけて~
※STFFさん
お疲れ様~
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皆さん
ねずみ君行きましょうか~
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資料写真
右端の石碑は
昭和33年に建てられた
角藤定憲(すどうさだのり)改良演劇創始之地
重機の有る空き地が
元の煉瓦建物。。(UP時)
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煉瓦建物は大阪屋本店
元:新町座
現:マンション建設中~(泣)
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通天閣
横目に~
※その後、
四天王寺さん境内にて
昼休み休憩
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参加賞の付け髭(カイゼル髭)が
目立ちます。
なにわ七幸めぐり
良いかも!
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熊野権現社目指して~
蟻の熊野詣出発点!
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福ちゃんより~
集合写真
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境内は手押しで~
※上町筋を整然と~
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明治2年(1869年)、大村は軍事施設視察と建設予定地の下見のため、京阪方面に出張する。
京都では弾正台支所長官の海江田信義が遺恨を晴らすため、
新軍建設に不平を抱く士族たちを使って大村を襲うよう煽動する、などの風説が流れるなど不穏な情勢となっていた。
木戸孝允らはテロの危険性を憂慮し反対したが、大村はそれを振り切って中山道から京へ向かう。
翌4日夕刻、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で、
長州藩大隊指令の静間彦太郎、大村の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、
元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われる。
静間と安達は死亡、大村は重傷を負った。その時の疵は前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、そして右膝関節に
負ったのであるが、なかんずく右膝の疵が動脈から骨に達するほど深手であった。
兇徒が所持していた「斬奸状」では、大村襲撃の理由が兵制を中心とした
急進的な変革に対する強い反感にあったことが示されている。
大村は一命をとりとめたが重傷で、7日に山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けた後、
傷口から菌が入り敗血症となる。
9月20日ボードウィン、緒方惟準らの治療を受け、大阪の病院(後の国立大阪病院)に転院と決まる。
10月1日、大村は河東操練所生徒寺内正毅(のち陸軍大将、総理大臣)、
児玉源太郎(のち陸軍大将)らによって担架で運ばれ、
高瀬川の船着き場から伏見で1泊の後、10月2日に天満八軒屋に到着、そのまま鈴木町大阪仮病院に入院する。
ここで楠本イネやその娘の阿高らの看護を受けるが、病状は好転せず、
蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることとなる。
だが手術のための勅許を得ることで東京との調整に手間取り、「切断の義は暫時も機会遅れ候」(当時の兵部省宛の報告文)と
あるように手遅れとなっていた。果して10月27日手術を受けるも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し、
5日の夜に死去した。享年46。
※向かいの難波宮跡公園
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飛行船も見物に?
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紅茶とクッキーで
おもてなし。。
※思い思いの持参の
カップ&ソーサーで…
ティーパーティを楽しみます。
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草原も気持ち良い~
※自転車談義にも花咲いて~
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せっかくの一丁来!写真撮影も…
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福ちゃんより~
集合写真
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さて、中之島の中央公会堂に
移動します。
※無事到着!
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記念撮影! 福ちゃんより~
集合写真
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