古/いにしえの面影       其の一阡壱百四拾五

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2012年03月04日 日曜日
アップ日  2015年09月03日 木曜日
大阪府大阪市天王寺区玉空清町(RCO七福神巡りⅡ)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
 
現在でも「真田幸村」の名で広く知られているが、直筆の書状を始め、
生前の史料で「幸村」の名が使われているものは無く、
その忌み名=諱=実名においては「信繁」が正しい。
「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣以後で、
寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』(万年頼方・二階堂行憲の著)がその初出と判明している。
時代が下るにつれ「幸村」の名が広まっており、
江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や
兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史においても「幸村」が採用されている。
「幸」は真田家(厳密には真田家の本家にあたる海野家)の通字であるが、
「村」については諸説あるものの由来は明確ではない。
大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から
「幸村」名についての問い合わせを受けた松代・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。
『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している。

(Wikipediaより)

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基本的に上町台地の坂道です~

※悪縁を絶つ寺
鎌八幡(かまはちまん)
元和の大坂冬の陣の時真田幸村が、陣所内にて当時信仰を集めていた御神木に、
「鎌八幡大菩薩」と称して慣例に習い鎌を打ち込み、
必勝を祈願したところ、大いに戦勝をあげたと伝承されている。
江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結びつき、
現在の形の「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集め、現在に至っている。
(Wikipediaより)


正面より

※契沖(けいちゅう、1640年(寛永17年) - 1701年3月4日(元禄14年1月25日))は、
江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)。
摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれた。釈契沖とも。
俗姓は下川氏、字は空心。祖父下川元宜は加藤清正の家臣であったが、
父元全(もとたけ)は尼崎藩士から牢人(浪人)となったため、
8人の子は長男を除いて出家したり養子として家を離れざるを得なかった。
契沖は、幼くして摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の?定(かいじょう)に学んだ後、
高野山で阿闍梨の位を得る。ついで摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の住持となり、
その間下河辺長流と交流し学問的な示唆を受けるが、俗務を嫌い畿内を遍歴して高野山に戻る。
室生寺では命を捨てようとしたこともある。
その後、和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村(現在の和泉市万町)の伏屋重賢のもとで、
仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行った。1678年(延宝6年)妙法寺住持分となった後、
晩年は摂津国東成郡東高津村(現在の大阪市天王寺区空清町)の円珠庵で過ごした。
『万葉集』の正しい解釈を求める内に、当時主流となっていた定家仮名遣の矛盾に気づき、
歴史的に正しい仮名遣いの例を『万葉集』、『日本書紀』、『古事記』、『源氏物語』などの古典から拾い、
分類した『和字正濫抄』を著した。
これに準拠した表記法は「契沖仮名遣」と呼ばれ、
後世の歴史的仮名遣の成立に大きな影響を与えた。

少しだけ御邪魔して~

※基本、徒歩移動でした。
この日…

史跡
文部省杭

私的には、こちらも史跡~
古路ちゃんです。

※歴史の物言わない・・・

上本町のイニシエ探し~



石畳は大好きです!


道路の真ん中に~祠

※白い鳥居~
巳さんですかね。。
前には他所で~

何でやろか?
前にUFO先生にお尋ねしたら~
昔は師匠筋の寺の境内だったとか~
周りは昔からの寺町なので…納得。。。
(私的にはWikipediaみたいな先生でした。)

※福禄寿(長久寺 日蓮宗 大阪府大阪市中央区谷町)
到着~
えっ!結局、この日は二社のみ~

谷町筋挟んで
近松門左衛門墓所
此処も元、寺の境内だったとか~



白木と

※弁柄と~

先の突き当りは
上町台地の段差~

明治期の地図にも
この辺りの路地は存在してます。

前は近くに~

桃谷湯さん~
あー廃業されています。

※少しお邪魔して~
風車タイル絵の名残。。
何処でしょうかね?

私の好きな
子供の声が聞こえそうな
路地が続きます。



ベッタン(メンコ)しよか~

※空堀商店街をかすめて~

基本上町台地なので坂が~



銅葺き家屋

※へぇ~ちんどん通信社さん


※袖壁が良いですね。

道路の畝るような凹凸が
上町台地の背中

※いろは湯さん

道路は畝リますが
住居には段差で…

ん?
前に来た時には長屋があったのに~
1 2

長屋の跡~

※今では高層の縦型
集合住宅に…

残った長屋も
お店として~

※銅座公園

大坂での銅の鋳造は大坂銅吹屋において行われていたが、その取引管理のため、
1701年(元禄14年)に銀座の加役として銅座が設けられた。
銅座役所は大坂高麗橋東一丁目両替町の大坂銀座に設けられた。
1712年(正徳2年)に一度廃止されたが、1738年(元文3年)に両替町に再度銅座が設けられ、
地売銅(国内向け銅)も管理の対象とした。
1750年(寛延3年)に経営不振を理由として再度廃止されたが、1766年(明和3年)に北浜に三度銅座が設けられた。

現在、大阪市立銅座幼稚園が大阪市中央区内久宝寺町にあり、近隣に銅座公園がある。
銅座の跡地(大阪市中央区今橋3丁目)には別に大阪市立愛珠幼稚園があり、園前に「銅座の跡」の碑が建立されている。
なお、幼稚園の建物は1901年(明治34年)の建築で銅座そのものとは関係はない。


※OFK
大阪府警本部だそうです。

あれれ~
お洒落な服装で~
知った顔も…
大阪Tweed Runの方々が~

私も大阪城で
ハイポーズ!

※寝屋川(旧大和川)渡る
京橋にて

歩道橋上から~

※この期、まださん事務所にて
豚汁食べて解散しました。。
御洒落しましょう!

やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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