其の一阡壱百七拾五
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)
撮影日 2015年04月20日 月曜日 アップ日 2016年01月25日 月曜日 |
||||||||
ワッカン~
資料として気になる街角 撮っておきや!(by UFO先生) 宇治川は、日本最大の湖「琵琶湖」を源とする淀川は、その上流部では瀬田川、中流部では宇治川と呼ばれ、 京都府・大阪府境界付近で桂川、木津川と合流した後は淀川となり、大阪湾に注ぐ一級河川です。 宇治川は淀川の通称であり、天ヶ瀬ダム上流部から桂川、木津川合流部付近までを宇治川といいます。 豊臣秀吉が築造した太閤堤と文禄堤により宇治川は巨椋池と切り離されました。 このことにより河内平野は氾濫から守られることとなりました。 戦国時代、豊臣秀吉は伏見城の築城資材の運搬水路の水深を保つために巨椋池内の島を結んで堤防を造りました。 この堤防は太閤堤と呼ばれており、横大路沼と巨椋池を分離し、 その排水をよくする治水効果もあったといわれています。 また、この堤防は大和に通じる 巨椋池の変遷街道の役目を果たしており、 宇治川左岸に近いところは現在も近鉄京都線の軌道として残っています。 また、秀吉は、槇島堤により宇治川と巨椋池を切り離し、城への水運を確保しました。 中流部に位置する観月橋は鎌倉時代末期に「桂橋」の名で初めて文献に現れます。 この「桂橋」は月見のため、巨椋池に浮かぶ島に向かうのに使われたといわれています。 その後、豊臣秀吉により宇治川が付け替えられ、新しい宇治川に架けられた橋は「豊後橋」と名前を変えましたが、 その「豊後橋」も幕末の鳥羽、伏見の戦いで焼失しました。 明治6年、新橋が完成すると、名称も月にまつわる伝説にちなみ「観月橋」と名付けられました。 宇治川に存在する塔の島周辺は、平等院等の歴史・文化的遺産に恵まれ、宇治川を代表する場所となっています。 塔の島周辺は、平等院等の歴史・文化的遺産に恵まれ、鵜飼いや舟遊びなど多くの観光客に利用されています。 紫式部は宇治川の上流石山寺に参籠中「源氏物語」の構想を得、須磨・明石の巻を書いたと伝えられています。 その「源氏物語」五十四帖中の後編に出てくる宇治十帖とは、 橋姫・椎本・総角・早蕨・宿木・東屋・浮舟・蜻蛉・手習・夢浮橋の十箇所です。 宇治橋の中ほど(上流側)に突き出ている「三之間」は、秀吉が茶の水をここから汲ませたと言われています。 (国土交通省HPより) (※=マウスポインターを画像上に置いて下さい) |