古/いにしえの面影       其の一阡壱百七拾七

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2014年10月14日 火曜日
アップ日  2016年01月26日 火曜日
兵庫県西宮市~神戸市東灘区(R2号沿線)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
 
大阪から神戸にかけての区間は、従来「第二阪神国道」である国道43号に対し、
「第一阪神国道」(略称は「一国(いちこく)」と呼ばれてきたが、近年は、
この国道2号のことを「にこく」と呼ぶことも多く、地元での呼称はやや混乱してきている。
またこの区間は大正時代に阪神国道電軌(後に阪神電気鉄道に吸収合併)の
資金によって建設されたので、1975年に廃止されるまで路面電車である
阪神国道線が併用軌道で通っていた。
(Wikipediaより)


お仕事よ!お仕事~
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

JR西宮のマンボウ

※ノンビリ散歩中~
誰の??

芦屋市茶屋之町
紀元二千六百年記念碑
国旗掲揚台
オバちゃんも
こんなん有ったんやね~と…

芦屋川
業平橋

※レトロ風バス~
芦屋の風に似合います。

大きな国道地蔵様
多くの多宝塔の頭も~
集積地?

※再建由来記
昭和7年建立以来
交通安全の守護として広く崇敬を集めて来たが、
平成7年1月17日午前5時46分突発した
阪神淡路大震災に依り倒壊した。
東灘地区は、最も被害甚大にして
倒壊家屋26,000軒
死者1500人を数える惨状であった。
平成十年に再建された。
(看板より抜粋)


打出の楠町にある
大楠公戦跡
1 2

※東灘区で唯一アーケードの有る
甲南商店街
モニュメント

 綺麗な
住吉川の段差
六甲山から一直線~

本住吉神社(もとすみよしじんじゃ)は、兵庫県神戸市東灘区にある神社である。旧社格は県社。
底筒男命・中筒男命・表筒男命(住吉三神)および神功皇后を主祭神とし、天児屋根命・大山津見命を配祀する。
東灘区渦森台北端の西山谷(住吉川の支流)西岸に奥宮がある。
社伝では、日本書紀において、神功皇后の三韓征伐からの帰途に船が進まなくなり、
神託により住吉三神を祀ったと記される「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」の地が当地であり、
当社が住吉三神鎮祭の根源であると伝え、そのために古くから「本住吉」と呼ばれるとしている。
「大津渟中倉之長峡」の地は現在の住吉大社であるとする説が有力であるが、
当社では住吉大社も当社からの勧請であるとしている。本居宣長も本住吉神社の主張を支持している。
延喜式神名帳には記載されていない。古くから「本住吉」と称してきたが、
明治初年の『神社調査明細書』には「住吉神社」と記載された。
神社側からの申請により、明治38年(1908年)に「本住吉神社」に復称した。
社殿は1995年の阪神・淡路大震災で大きな被害を受け、現在の社殿はその後復興したものである。




多くの石燈籠も~

※拝殿社正面

お百度石

※地車庫?
前は現車庫??

国旗掲揚台

※小さめの
お百度石

神戸市立御影公会堂(こうべしりつみかげこうかいどう)は、
兵庫県神戸市東灘区御影石町4丁目4番、石屋川の東側、国道2号の北側にある会館。
集会施設として利用されるほか、施設内にある御影公会堂食堂は、
建設当時から営業している老舗の洋食屋として知られる。
御影町時代、この建物は御影町公会堂として建設された。設計は、清水栄二が手がけた。
白鶴酒造の嘉納治兵衛により、1929年2月26日に15万円、1932年5月1日に2万円、1933年4月1日に3万円の計20万円の寄付と、
その利子2万9365円49銭、町費積立金及びその利子1万554円6銭、
一般町費496円32銭の計24万414円87銭で以って建設費・設備費・雑費が賄われた。
敷地は石屋字左美也百二十二番地の十二の945坪6合6尺の土地で、1932年6月15日に大林組の請負で着工し、
翌年5月20日竣工。5月25日落成式。6月14日使用条例を定める。

※草の根たよりに堤防を這いずり上る。上ってみると
御影第一第二国民学校御影公会堂がこっちへ歩いてきたみたいに近く見え、
酒蔵も兵隊のいたバラックもさらに消防署松林すべて失せて阪神電車の土手がすぐそこ、
国道に電車三台つながって往生しとるし、上り坂のまま焼け跡は六甲山の麓まで続くようにみえ、
その果ては煙にかすむ
(野坂昭如『火垂るの墓』、主人公清太が石屋川から見た6月3日の空襲後の焦土と化した御影の町)

建築後60年が経過して老朽化が進み、神戸市は公会堂を大改修して柔道の殿堂「嘉納記念館」とする計画を立案し、
1995年元日付の神戸新聞に大きく掲載された。
耐震性の問題から、正面玄関部分のみを残し、北側を壊して新しく建て替えるものであった。
しかし、その半月後に阪神大震災が発生した。
周囲の建築物の多くが全半壊した中、皮肉にも公会堂はほとんど被害がなく、
地震直後から約1年にわたり多くの被災者の避難場所として活用された。
嘉納記念館構想はいつしか立ち消えとなった。
震災から20年近くを経た2014年現在も、内部は老朽化がさらに進んでいるものの、
震災以前と変わらぬ用途で大改修を受けることもなく使用中である。

当時のデザインは良いですね~

※この後、地下レストランで
オムライス頂きました~
美味しかった!

やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
ページトップへ戻る

Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights Reserved.