古/いにしえの面影       其の一阡壱百五拾七

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2013年11月17日 日曜日
アップ日  2015年12月01日 火曜日
三重県志摩市大王町波切(大王崎燈台)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
 
大王崎(だいおうざき)は、三重県志摩市大王町波切(なきり)にある、熊野灘と遠州灘を分ける岬である。
1927年(昭和2年)に作られた大王埼灯台のある城山から、波切神社のある宮山までを指す。
岬の付近に大王崎古墳があったが、消滅した。
暗礁・岩礁が多く、「伊勢の神崎、国崎の鎧、波切大王なけりゃよい」と唄われたほどの航海の難所で、
遭難する船が多く、天保2年(1832年)には積荷を横領するための偽装難破事件(波切騒動)も起きている。
この事件では難破を偽装した船頭のほか、取り調べに来た役人を死亡させてしまった住民らが処刑された。
役人の殺害に関しては、要求された賄賂を支払ったにもかかわらず便宜をはからなかった怨恨によるとする説と、
泥棒と誤認して取り押さえた結果の過失致死とする説がある。
高野澄『伊勢神宮の謎』や『大王町史』では後者の説を支持しており、
また吉村昭の『朱の丸御用船』も後者を史実とした上で小説化したものである。
大王埼灯台は「波切の灯台」とも通称され、2006年の時点で日本に14ある参観灯台の1つであり、
波切の重要な観光資源となっている。
1998年(平成10)に日本の灯台50選に選ばれた。
明治期から千種掃雲、小野竹喬など多くの画家が訪れ筆を取った。
昭和以降は灯台のある風景などを好む画家が多く訪れたことから、1996年(平成8年)に
当時の志摩郡大王町は「絵かきの町」を宣言した。
小説では川口松太郎の『女人武蔵』、田山花袋の『南船北馬』の舞台となった。
1912年(明治45年/大正元年)には民俗学者折口信夫が訪れマレビト説の着想を得た。
また1950年代から2007年末までに、小津安二郎監督の『浮草』など数本の映画が撮影された。
南北朝時代から室町時代に九鬼氏5代の居城となった波切城跡が城山にあり、
ここを戦国大名の九鬼嘉隆誕生の地とする説がある。
造船でも、信長の要望に応えて造られた燃えない鉄甲船の威力は凄まじく、
嘉隆は毛利水軍600隻を打ち破ることに成功した。
この戦功によって嘉隆は信長から志摩に加え、摂津野田・福島などを与えられて7,000石を加増され、
合計3万5,000石を領する大名となった。

(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

波切漁港
波は静かです。

※遠州灘方面に開けています、
二重の波止が見えます。

この地は、小学生の頃と
高校卒業してからの二回ほど訪れています。

※覚えているような~?

魚の開きが売られていました。

※お土産屋サン

遠く退治崎や麦崎が望めます~
小さな浜を沖の一文字で守っています。

※熊野灘と遠州灘の境
 
宝門の浜碑

※大王崎モニュメント

ナンカ覚えている風景~

※段々屋根

此処覚えています!
昔に歩いた記憶が~

※商店街?の端に
小さな祠

東海の観光と史跡認定地

※大王崎灯台

白亜の塔!

※現役です。

入場券買って、登ります。

※GPSの時代ですが…
頼みますよ!

昭和二年に初点灯ですって。

※見下ろし系の景色も好きです!

大王崎の先方面
遠く渥美半島は~見えんか。。。

※遠く退治崎や麦崎が望めます~

波切(なきり)の街並みも~

※大王埼の付け根風景

遊歩道が完備してます。

※見返って~
燈台見上げて。

波切神社
台風の影響でか~此処もコンクリ拝殿舎

※力石?と思えば~
鯨石とか。。
クジラの胆石でしょうか??

傷んだ小さな狛犬~


※吽

この一つ目像?灯籠?は~
ダンダラ法師像
わらじ祭
       昔、大王崎の沖に、ダンダラ法師と言う一つ目の巨人が住んでいました。
       この巨人、海は荒らす、村の娘はされっていくという悪さのし放題。
       そこでこの法師に困った村人達が団結して、大わらじを編み、
海に向って流しました。
       すると一つ目は自分より大きな巨人が居ると思いこんで、以来悪さをしなく
       なりました。という伝説にちなんで年に一度、9月中の日に波切神社で神事
       を行った後、畳一畳程の大わらじを海に流し、海上安全と大漁を祈願します。
       この神事は県の無形文化ざしに指定されています。


※複雑な形の波止
それだけ入り組んだ
大きな波が
押し寄せるんでしょうね。

(日露戦争)忠魂碑
東郷平八郎銘

※松井仙右衛門翁顕彰碑
松井仙右衛門(1873年~1932年)は言葉通り、
当時の波切村のために尽力した郷土の恩人です。
1905年に波切村村長、1915年に県会議員となり、
1916年に漁業振興のため漁港整備計画が出された折に、
波切漁港整備の誘致に尽力し、予算獲得のため奔走しました。
また、この地域が農地が狭く、長年の食糧難を少しでも解決すべく、
新田開発にも力を注ぎましたが、1932年(S7)病のため59歳で亡くなられました。
(伊勢志摩きらり千選HPより)

やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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