古/いにしえの面影       其の一阡壱百五拾八

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2014年08月02日 土曜日
アップ日  2015年12月01日 火曜日
奈良県奈良市登大路町(興福寺辺り)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
 
奈良市街地の西には、ウワナベ古墳など5世紀の巨大古墳が築かれ、佐紀古墳群を形成している。
『和名抄』に見える
大和国添上郡山村郷、楊生郷、八島郷、大岡郷、春日郷及び添下郡佐紀郷、鳥貝郷の地であった。
現在の市域周辺が日本史の舞台に登場するのは、710年に都が藤原京から平城京に遷ってからのことである。
その後、何度か短期間の遷都があったものの長岡京に遷る784年まで、この地が日本の中心となっていた。
長岡京への遷都後も、東大寺や薬師寺、興福寺などの仏教寺院勢力がこの地域に残り、「南都」と呼ばれた。
中世になってからも、興福寺が大和守護職に任じられるなど、
広大な荘園を有する仏教寺院勢力は依然として影響力を保持していた。
むしろ大寺院の勢力は戦乱の時代においてこそ影響力が大きく、そのために何度か戦火に見舞われた。
2度の大仏焼失事件(南都焼討と東大寺大仏殿の戦い)などはその象徴的なできごとといえる。
しかし、室町時代から戦国時代にかけて、
他国および近在の所領も含めて在地の大和武士団が実効的な支配を行うようになったために、大寺院の勢力は衰えた。
江戸時代には奈良奉行が設置され、江戸幕府の直接支配下に置かれた。
この時代の雰囲気を残すのが奈良町(ならまち)である。
また、現在の市域の南部は津藩の飛び地(古市町付近)、同じく北東部は柳生藩の領地となっていた。
太平洋戦争中は、京都とともに大規模な空襲を受けなかったため、多くの文化遺産が残された。

(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

二条大路を東へ~
右前隅に若草山が~

※beat駐車して…
すでに奈良の路地中

煙抜き家屋が普通に~

※ドクターもお洒落に。。

小さな祠は沢山あります。

格子にも~
涼風が…

※駐車場の奥に
お地蔵様。

近鉄奈良駅前

※バス案内所横の案内石碑
聖武天皇陵は左へ六丁
元明元正天皇陵左へ廿丁

小西さくら通り



興福寺さん、此処からも入れます~

※南都銀行~
友人のメインバンクです。


もちいどの(餅飯殿)
奈良で最も古い商店街のひとつ「餅飯殿センター街」。
「餅飯殿」の地名の由来は諸説ありますが、こんな伝説が残されて
います。今から千百年余り前、東大寺の高僧、理源大師が、
大峰山の行者を困らせる大蛇退治に出かけることになりました。
そのお供に名乗り出たのがこの町の箱屋勘兵衛と若者七人衆。
たくさんの餅をつき、干飯を作り、大峰山に向かいます。
そして、大蛇の被害を受けた人々たちに「餅」や「飯」を配り、
無事に大蛇を退治します。
その後、理源大師は、この町の若者に「餅飯の殿」の称号を与え
その労をねぎらいました。
以来、この町を「餅飯殿」と呼ぶようになったということです。
(もちいどの夢クラブHPより)




古梅園さんも~
筆と墨は奈良の名物。。

中谷堂さん
名物、早餅つき!
ヨモギ餅¥130-でした。。

※奈良県距離元標

奈良市道路元標

※後ろは~
高札場!

復元されたとか~

※手力雄社

新しい触れは出ませんよね。。
1 2 3
他にも~

※榎?欅?

昔からの路地~
徒歩用ではスタンダード。。。

懐かしいなぁ~
鹿のビニール玩具
私も余所行きの服着て此れ持った白黒写真が~
我が娘も此れ持った写真も有ります。
此処で買ったと思う~

※興福寺の参道脇の地蔵群

綺麗に整備されています~

※手水舎

福寿海無量
昔、お習字で書いた思い出が~

何円堂さん
唐風ですね。

※脇に不動明様

納経所が有ります。

※南円堂(重文)は弘仁4年(813年)、
藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂追善のため創建した八角堂。
現在の建物は寛政元年(1789年)の再建である。
創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像であった。
(Wikipediaより)

へぇ~北円堂も在るんですね~知らなかった!

藤の花も二番咲き

※五重塔(国宝)は天平2年(730年)、光明皇后の発願で創建された。
現存の塔は応永33年(1426年)頃の再建である。
高さ50.1メートルで、木造塔としては東寺五重塔に次ぎ、日本で2番目に高い。
(Wikipediaより)

鐘楼

※額塚
謂れは?

流石~奈良の意匠!

※中金堂再建工事中

五重塔の足元に
鹿をアシラッテ~~

※鹿煎餅売りのオバちゃん~
鹿が脇から食べようとしたら
ペチッと!
躾ですかね。。

東金堂(国宝)は神亀3年(726年)、
聖武天皇が伯母にあたる元正天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建した。
治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、
興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた。
東金堂はその後応永18年(1411年)に五重塔とともに焼け、
現在の建物は応永22年(1415年)の再建の室町時代の建築である。
様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。
平面規模は、創建時の堂に準じている。

僧兵~無茶しますね。。。

※少し高台

観光客が買った煎餅には
鹿が群がってきます。
これも躾けられてる?

※早く買って!よと…

ポーズ取りたいのに~
押されて困り顔

※ライトアップされたのも綺麗ですよ!

春日野の標高差

※植桜楓之碑
幕末の奈良奉行を勤めた川路聖謨の呼びかけで
苗木数千本を植えたとか。。
観光奈良の先見の明が有ったのですね!

奈良燈花会
前に来ましたわ!

※猿沢の池
悲恋物語~

猿沢の池の畔に佇む
九重塔

※雨でも絵になります。



※発掘中~

やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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