ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
古代の宇智郡の地であり、宇智神社を始め、大和に移住させられた阿田隼人が祭った
阿陀比売神社(旧・阿陀郷)などの延喜式内社が鎮座する。
また栄山寺には奈良時代に藤原仲麻呂が創建した八角堂(国宝)も残る。
南北朝時代の1348年に南朝の本拠地である吉野が陥落した際に、
後村上天皇が賀名生(現在の五條市西吉野町)に入り、一時期南朝が置かれた。
1600年に松倉重政が関ヶ原の戦いの論功で領土を与えられ、大和五条藩(現在の五條市二見)が成立、
江戸時代に入り1616年に重政が島原藩に移封されるまで存続した。
重政は五条藩では城下町である新町(現在の五條新町通り界隈)の振興に努めてその後の繁栄の基礎を作ったが、
島原藩移封後は圧政を敷き島原の乱の原因を作った。
その後、幕府の天領となり、1795年に五條代官所が設置された。
多数の街道や吉野川(紀の川)の水運など交通の便に恵まれ、南大和統治の中心地として栄えた。
旧紀州街道に当たる新町通りが街の中心で、現在も往時をしのばせる家屋が多数残っている。
1863年(文久3年)8月17日(旧暦)、天誅組が五條代官所を襲撃、
代官鈴木源内を殺害し倒幕運動の烽火を上げたことでも知られる(天誅組の変)。
天誅組の本陣は桜井寺(現在の五條市須恵、本陣交差点の近く)に置かれ、一時「五條仮政府」を名乗った。
明治初年の一時期五條県が置かれた。
1912年9月22日の暴風雨により宇智郡五條町域で2丈3尺(約7m)もの浸水被害があった。
(Wikipediaより)
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