古/いにしえの面影       其の一阡壱百七拾弐

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2015年10月16日 金曜日
アップ日  2015年12月14日 月曜日
奈良県五條市本町(代官屋敷跡)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
 
古代の宇智郡の地であり、宇智神社を始め、大和に移住させられた阿田隼人が祭った
阿陀比売神社(旧・阿陀郷)などの延喜式内社が鎮座する。
また栄山寺には奈良時代に藤原仲麻呂が創建した八角堂(国宝)も残る。
南北朝時代の1348年に南朝の本拠地である吉野が陥落した際に、
後村上天皇が賀名生(現在の五條市西吉野町)に入り、一時期南朝が置かれた。
1600年に松倉重政が関ヶ原の戦いの論功で領土を与えられ、大和五条藩(現在の五條市二見)が成立、
江戸時代に入り1616年に重政が島原藩に移封されるまで存続した。
重政は五条藩では城下町である新町(現在の五條新町通り界隈)の振興に努めてその後の繁栄の基礎を作ったが、
島原藩移封後は圧政を敷き島原の乱の原因を作った。
その後、幕府の天領となり、1795年に五條代官所が設置された。
多数の街道や吉野川(紀の川)の水運など交通の便に恵まれ、南大和統治の中心地として栄えた。
旧紀州街道に当たる新町通りが街の中心で、現在も往時をしのばせる家屋が多数残っている。
1863年(文久3年)8月17日(旧暦)、天誅組が五條代官所を襲撃、
代官鈴木源内を殺害し倒幕運動の烽火を上げたことでも知られる(天誅組の変)。
天誅組の本陣は桜井寺(現在の五條市須恵、本陣交差点の近く)に置かれ、一時「五條仮政府」を名乗った。
明治初年の一時期五條県が置かれた。
1912年9月22日の暴風雨により宇智郡五條町域で2丈3尺(約7m)もの浸水被害があった。
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

河岸段丘を利用した石垣

※上が代官屋敷だった。

新町が中心地だったんでしょうね。



五條市民俗博物館が屋門を~
その他の敷地は奈良家庭裁判所など法務局・検察庁が~

※遠くに金剛山が~

明治維新の先駆けの地

※天領だったんですね。
先日訪れた
1
 2

石垣は往時のママ??

※明治維新の先駆けの地

代官屋敷を襲撃したとか~



整備は良くされています。



焼き払われてから
明治元年に再建されたとか~
五條県発足時には県庁
その後、警察大屯所、中学校を経て
裁判所と成ったとか~

※長屋門内
民俗博物館風景

文久3年8月13日、天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられる(大和行幸)。
大和行幸を推進したのが、長州藩に気脈を通じる三条実美ら攘夷派公卿であった。
吉村虎太郎は松本奎堂、藤本鉄石、池内蔵太ら攘夷派浪士と共に、
大和行幸の先鋒となるべく大和国へ赴くことを決議。
14日、吉村らは中山邸を訪ねて忠光を方広寺へ誘い出した。
忠光を大将とする同志38人(内、土佐脱藩18人、久留米脱藩8人)は方広寺を出発して大和国へ向かった。
一行は長州下関へ下る勅使と偽って大坂から海路で堺へ向かう。
船中で忠光ら同志一行は断髪して決意を示した。
彼らの挙兵に際して淡路の大地主で勤皇家であった古東領左衛門は財産を全て処分し、軍資金として供出した。

※8月15日、堺(現在の堺市堺区栄橋町1丁の土居川沿い、
当地に堺事件の碑とならんで「天誅組上陸地」の碑が建てられている)に到着した同志一行(以降、天誅組と記す)は
翌16日払暁に高野街道を通って河内をめざし、狭山に入った。
天誅組は吉村らを軍使として狭山藩の陣屋へ送り、先代藩主で隠居の身であった北条氏燕との面会を申し出た。
氏燕は急病と偽って面会を断り、家老朝比奈縫殿が代って対応する。
忠光は朝比奈に狭山藩も出陣して義挙に加わるよう命じた。
対応に苦慮した狭山藩はとりあえず天誅組にゲベール銃など銃器武具を贈り、
天皇親征の節には加わる旨を回答する。
天誅組は下館藩の飛び地である白木陣屋にも使者を送り、銃器武具を差し出させている。
天誅組は菊の御紋の入った旌一流、「七生賊滅天後照覧」と大書された幟一本をつくり、士気を高めた。
17日、天誅組は河内檜尾山観心寺に入る。
軍資金を調達に出ていた藤本鉄石が合流して出発、国境の千早峠を越えて大和国へ入った。
幕府天領の五条に到着した天誅組は、代官所を襲撃することを決める。
代官所を包囲した天誅組は代官鈴木源内に降伏を要求。
ゲーベル銃隊を率いる池内蔵太が空砲で威嚇し、吉村が率いる槍隊が裏門から突入した。
代官所の人数は30人程で、意気軒昂な天誅組に抗することができず代官所方は敗北し、鈴木は殺害される。
天誅組は代官所を焼き払い、桜井寺を本陣に定めた。
18日、天誅組は鈴木源内を梟首し、五条を「天朝直轄地」と称して、この年の年貢を半減することを宣言する。
天誅組は忠光を主将、吉村、松本奎堂、藤本鉄石を総裁とする職制を整え、
自らを「御政府」または「総裁所」と称した。
近隣の高取藩に那須信吾らを恭順勧告に送り、高取藩もこれに服する旨を伝えてきた。
一方、天誅組の挙兵を知った京の三条実美は自重をうながすべく平野国臣を使者に送った。
(Wikipediaより)


金剛山の麓を走っていた
金剛86(ハロー)号が展示されています。

※後ろ姿

金剛 ハロー号



 

大正初期に製作された旅客用の機関車で、それまでは英国製の2120形が過半を占めていた。
この8620形は我が国初めての国産機関車で、高速運転に適合して設計され特に先台車は1軸台車
でありながら2軸台車の作用をしているのも8620形式のみである。大正14年までその数687
輌の多くに達し、ハチロクの愛称を持って親しまれてきた。終戦後、昭和24年奥羽本線(福島~大
沢間)43kmが電化されたのを皮切りに各幹線の電化、近代化により車令50年をこす8620形
は減少の一途をたどり、昭和47年4月には五能線(秋田)、唐津線、長崎線に合わせて30輌とな
った。洗練されたスタイル、三訓和音の汽笛、大きな働輪はいつまでも当時の雄姿をしのばせること
でしょう。またこのスポーク働輪は今でも国鉄のシンボルとして帽章に制服の釦に刻まれているのに馴
じみ深いことと存じます。8620形の元祖8620号(1号機は昭和37年10月東京青梅公園に
当時のままの姿で保存されています。ラストナンバーは88651号機であり、この78675号機は
616輌目に製造されたものである。(看板より)

※このまま走りますか?


動態保存でしょうか?

※櫻井寺の屋根と
レンガ煙突

裁判所正面
現代の御白州ですかね~

※草生して
兵どもも夢の跡。。

やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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